アイルランド


クーリー蒸留所株式会社

アイリッシュ・ウィスキーの復活を目指し、150年ぶりに新設された蒸留所 本文中のポンドは、すべてアイリッシュ・ポンド

 経済が低迷するヨーロッパで、唯一アジア諸国並みの経済成長を遂げている国、アイルランド。同国は、90年代に入り、常に欧州連合諸国の平均を上回る経済成長を遂げてきた。

日本と似て、資源に乏しい島国のアイルランドは、国内市場が小さく、輸出指向が高い。現在では、国内総生産の8割が輸出、その7割が欧州連合諸国に向けられてい。

 アイルランドの産物といえば、ウィスキーがあげられるが、19世紀には、世界のウィスキー市場の6割を占めていたアイリッシュ・ウィスキーは、その後、衰退の一途をたどり、現在では、1%を占めるにすぎない。

 1830年、アイルランドで、時間のかかりすぎる伝統的なポットスチル法に代わり、パテントスチルを使った新しいウィスキー製造法が開発された。しかし、アイルランド人らは、「ウィスキーはポットで作るもの」と伝統的製造法に固執した。その間に、スコットランド人らが、この新方法を採用し、20世紀初頭には、アイルランドに移住して主な蒸留所を買収、改造してしまった。

 こうしてアイルランドは、20世紀に入り、ウィスキーのメッカとしての地位を失い、それとともに蒸留所の数も減少した。さらに、唯一の輸出市場であったアメリカが禁酒法時代に入り、アイリッシュ・ウィスキーの衰退に拍車がかかった。第二次世界大戦の終結とともに、アイルランド政府は、輸出からは消費税が得られないという理由で、ウィスキーの輸出を全面禁止。こうして、それまでに、微々たる生産量になっていたアイリッシュ・ウィスキーは、アイルランド国内でしか販売されなくなった。

 60年代半ば、伝統産業を復活させようという政府の指導の下、残った蒸留所が合併され、アイリッシュ・ディスティラーズが設立された。72年には、シーグラムが手放したブッシュミルズも合併され、アイルランドのウイスキー市場は、一社による完全な独占状態となった。

 30年後、この独占状態に終止符を打つ起業家が現れた。87年にダブリンにクーリー蒸留所を設立したジョン・ティーリング会長だ。

 ティーリング会長は、70年、アメリカのハーバード・ビジネススクールの博士課程に在籍中、アイリッシュ・ウィスキー市場について調査。そこにビジネスチャンスを見い出し、いつかアイルランドで蒸留酒製造業に携わりたいと考えていた。アイルランドに戻った彼は、金鉱や石油精練業界、大学教授として活躍するが、「いつか、ウィスキー製造を」と、機会が熟すのを待っていた。

 86年、ティーリング会長は、独占メーカーのアイリッシュ・ディスティラーズの買収を検討した。結局、同社は、翌年、フランスのペルノ・リカールに買収されたが、同会長は、アイルランドのウィスキー市場には、まだまだ参入の余地があることを確認した。

 「アイリッシュ・ディスティラーズは、流通が弱く、売上は伸び悩んでいたし、生産量の半分をアイルランド国内で販売していた。高品質のアイリッシュ・ウィスキーを製造すれば、海外への輸出、大手小売店へのプライベートブランドの販売に大いに可能性がある」(テーィーリング会長)

 翌年、ティーリング会長は、12万ポンド(約2000万円)で、ダブリンの北、クーリーという町にある国営のアルコール蒸留所を購入した。著名な起業家二人を説得して投資を依頼。計300万ポンド(約4.8億円)をポットスチルとパテントスチルの設備投資に費やした。さらに、アイルランド中部のキルビガンという町にある1757年に建設された世界最古の免許所得蒸留所ロッキーズのオーナーと交渉し、クーリーの株と引き換えに同蒸留所の設備を確保した。

 アイルランドに新しい蒸留所が設立されたのは、なんと150年ぶりのことである。

 「アイルランドのベンチャーキャピタル市場というのは非常に小さいですから、起業家にとって最大の問題は、資金の調達です」というティーリング会長自身、資金の調達には一番苦労した。

 アイルランドの法律では、新たに製造されたアルコールをアイリッシュ・ウィスキーと呼ぶには、アイルランド国内でオーク樽を用い、少なくとも3年の熟成が義務づけられている。これには、相当の貯蔵設備と資金が必要である。

 その頃、アイルランド政府は、一人2.5万ポンド(約400万円)までの投資は、個人投資家が経費として計上してもよいという「事業拡大支援プログラム」を設けていた。同会長は、これを利用し、88ー89年、友人知人に株主になってもらい250万ポンド(約4億円)の資金を調達した。

 しかし、これでは、まだまだ不十分だった。政府のプログラムが適用されるのは製造業に限られ、また海外からの製造業誘致のため、製造業に対する法人税は、サービス業の40%に比べ、10%に抑えられている。ティーリング会長は、国税局にかけあい、1856年にイギリスの貴族院で可決された「ウィスキー熟成業は製造業と見なされる」という決議を盾に、ウィスキーの熟成だけを専門とした別会社を設立し、その会社に対し、さらに250万ポンド(約4億円)の資金を調達した。この別会社では、生のウィスキーをクーリー蒸留所から原価で買い取り、数年、貯蔵した後、熟成したウィスキーをクーリーに売り戻す。

 ティーリング会長は、この方法で7つの別会社を作り、計700万ポンド(約11億円)の資金を集めた。調達した資金は、すべて原料の購入とウィスキーの熟成に費やされた。

 しかし、「事業拡大支援プログラム」が定める資金調達額は年々、引き下げられ、91年には、ウィスキー製造・熟成業は、このプログラムから除外される結果となった。

 調達した資金は、一応、株式資本ではあったが、本質的には返済期限5年の融資だった。当初の計画では、5年後の92年には、ウィスキーを販売し、返済ができるはずだったのだが、実際には、ウィスキーの熟成はまだ2年しか経っていない。ティーリング会長は、さらに580万ポンド(約9億円)を銀行から借金せざるを得なかった。 「しかし、この資金は一週間に4万ポンド(約640万円)のスピードでなくなりました」

 とうとう資金が底をついた。販売する商品はないので、売上はゼロである。残るは、長期のパートナーを見つけるしかない。こうして、クーリー蒸留所は、91年から93年の間、売りに出された。アイリッシュ・ディストラーズへの身売りも考えたが、独占禁止法にひっかかるとして、政府の許可が得られなかった。「私は、できればクーリーを売りたくなかった」というティーリング会長だが、夜中に汗びっしょりになって目が覚め、「事業を開始すべきではなかった」と悔いる日もあったという。

 苦肉の策として、ティーリング会長は、ウィスキーの在庫をアメリカやドイツに販売。180万ポンド(約3億円)を銀行への返済にあてた。

 何十年も一社が独占してきた業界で、経験豊かな人材を確保するというのも至難の業だった。蒸留所には、当然、蒸留者が必要だが、蒸留所が国に一軒しかないのでは、蒸留経験者の数は限られる。しかも、ティーリング会長は、唯一の蒸留所であるアイリッシュ・ディスティラーズで勤務経験のある人材は採用しない方針を採った。

 「アイリッシュ・ウィスキーとは何たるべきか、その販売方法はどうあるべきかなど、アイリッシュ・ティラーズは固定観念に縛られている。古い社風と、長年、独占企業としてやってきたその体質に“毒された”人材は、採用したくなかったんですよ」

 解決策として、ティーリング会長は、スコッチの蒸留者を2人採用した。

 同社では、89年にウィスキーの製造を開始。ウィスキーの熟成および樽詰めは、キルビガンの倉庫で行なわれる。200年以上も前に建てられた湿った石の倉庫は、ウィスキーを伝統的な方法で熟成させるのに理想的な環境である。

 「今日、このような形で熟成されるアイリッシュ・ウィスキーは、ほとんどないですね」(ティーリング会長)。

 同社では、この他に、有名なタラモア・デューの生産地、タラモアにも倉庫を所有しているが、これはキルビガンの倉庫とは違い、1974年にウィスキー貯蔵を目的に建てられた近代的なものである。ウィスキーは、各倉庫で、最高8年間、熟成される。

 92年、ロッキーズで製造された初のアイリッシュ・ウィスキーの樽が開けられた。翌年の93年、50年ぶりに、ティルコネル・シングル・モルト・ピュア・ポットスチル・アイリッシュ・ウィスキーが市場に登場した。94年には、高品質のブレンド・ウィスキー、「キルビガン」と、モルト成分の高いプレミアム・ブレンド、「ロッキーズ」を発売。同年、同製品は、ヨーロッパと北米の16市場に輸出された。95年に発売した初のピーテッド・アイリッシュ・ポットスチル・シングルモルト、「コネマラ」は、今年、ロンドンで行なわれた国際コンクールで金賞を受賞した。

 初めから、海外市場への進出を考えていたティーリング会長は、まず、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツの世界四大アイリッシュ・ウィスキー市場をねらった。

 アイリッシュ・ウィスキー市場を独占してきたアイリッシュ・ディスティラーズの親会社、ペルノ・リカールは、各市場に代理店を一社しか置かない主義だ。クーリーは、各国でペルノ・リカールの代理店以外の代理店を徹底的にねらった。この戦略は、ドイツで大きな成果を見せ、クーリーは、現在、ドイツのブランド市場の2割を占めるに至っている。

 フランスでは、選り抜きの小売店用にプライベートブランドを開発して成功した。イギリスでも、大手小売チェーン数社のプライベートブランドを手がけている。これらの国では、飲食品市場は、一握りの大手小売チェーンで占められているため、プライベートブランドが効果的である。ペルノ・リカールのお膝元であるフランス市場でのクーリーのシェアは25ー30%に達しており、イギリスでのシェアも、今年、10%アップが予測されている。

 海外市場に的を絞る同社では、ひんぱんな海外出張に耐えられるよう、採用するのは若者に限っている。採用者の最年長者は25才。新卒の社員でも、多大な責任が負わされる。

 さらに、最低2ケ国語を話せることが採用条件だ。同社では、アイルランド政府が主催しているヨーロッパ・オリエンテーション・プログラムを利用し、社員を海外に派遣する。これは、若者を海外に派遣し、3ヶ月の語学研修後、現地企業で9ヶ月の実地研修を受けさせるというもので、政府が費用の半分を担う。クーリーが現在オランダに派遣している社員は、6週間の語学研修を受けた後、クーリーの代理店で実地研修を受けることになっている。

 クーリーでは、四大市場以外に、今後、南欧、アジア、南米にも進出する予定だ。日本市場への進出には積極的だが、日本での輸入元、代理店探しがうまく行かず、参入できていない。

 クーリーでは、やっと来年、損益分岐点に達し、98年には利益を計上する予定だ。「アイルランドを拠点に、世界的に競争力のある企業を築くこと」を夢見るティーリング会長の手により、アイリッシュ・ウィスキーが、再び「世界のウィスキー」としての地位を確保する日は遠くないかもしれない。


取材・文-----有元美津世
ベンチャーリンク誌 96年12月号に掲載
Copyright GlobalLINKTM 1997

世界の起業家インデックスへ