インドネシア

夢想家・芸術家と呼ばれても女性客の心をつかむ1枚の布
ビン・ハウス


伝統的な繊維産業は、インドネシアでも衰退していくばかり。そういったなか、職人を探し、新しい試みも行い、芸術性の高い作品を作り、若い女性の心をつかんだのが、ビン・ハウス。いちばんのお客さんは日本女性というが、ビン・ハウスの魅力はいったい何なのか?

インドネシアの染め織物といえば「ジャワ更紗」の名称で知られるろうけつ染めのバテイックが思い浮かぶ。1994年、インドネシアで行われた太平洋経済協力会議(APEC)で、各国首脳が着用していたのを覚えているだろうか。また、日本の絣にあたるイカットを、インドネシアの代表的染め織物として挙げる人もいるだろう。

このような染め織物は、化学染料や化学繊維の出現と機械化により、短時間で安価に大量生産できるようになった。たしかに便利にはなったが、伝統的手工業の継承はどうなるのか。

ジョセフィーン・コマラ社長の経営するビン・ハウスは、インドネシアの染め織物を昔ながらの手法でデザイン、作成し、販売している。もちろん、化学染料などは一切使用しない。絹のブラウスや小物も手がけ、94年には年商600万米ドル(約4億8000万円)を売り上げた。コマラ社長はデザインを担当するほか、伝統的技術を継承していく活動をしている。首都ジャカルタに1店舗、バリ島に2店舗を展開し、94年11月には東京・銀座に初の海外直営店をオープン。翌95年には、東京と名古屋にて初のファッションショーを開催したのをはじめ、シンガポールにも店舗を開いた。

<伝統を再現しながら若い女性にウケる試み>

17歳で結婚したコマラ社長の前夫は、アンティーク・ディーラーだった。当時古い布を見ているとき、彼女はこんなに美しい物をなぜ今では作らなくなってしまったのだろう、と疑問に感じていた。76年頃からテキスタイルに関心をもちはじめ、仲間たちとともに、伝統的染め織物を再現する試みを始めた。

それはまず、地方の村に赴き職人を探すことから始まった。本に「染め織物の村」と紹介されていても、職人がいなくなってしまっていることもあった。辛抱強く村落を訪れ、職人を探し続けた。数年後、小規模な工房を建て、職人を4〜5人雇い、まずイカットが再現できるようになった。

84年に離婚したコマラ社長は、2人の子どもと自分が食べていくために、本格的に商売を始めようと決意した。けれど、担保になるような物のない彼女に、融資してくれる銀行はなかった。

「銀行は私のことを、アーティスト、ドリーマーとしか言いませんでした」と、コマラ社長は当時を振り返る。

前夫の友人であり、その頃、文化人類学の学生だったロニ・シスワンディ氏に協力を求め、友人から借り集めた2万ドル(約160万円)と20枚の布で、会社を設立。まだ学生だったシスワンディ氏は、資金面でコマラ社長を援助することはできなかったが、経営、職人探し、デザインなどで活躍し、ビン・ハウスを設立当時から支えている。

当時もいまも住居と店舗は兼用で、夜遅くまで働くには好都合だったが、身体を休める余裕はなかった。「床にマットレスを敷いて寝ました。朝起きるとマットレスをたたみ、そこでコーヒーを飲みました。私はゼロから始めたのです」と、コマラ社長は赤貧時代のエピソードを語る。

時間ができれば地方の村に出かけて行き、職人を探し、教育した。彼らの仕事ぶりを見ながら、コマラ社長やスタッフたちは、染め織物のできていく過程を学んでいった。自分たちが教えるつもりが、逆に職人たちに教えられることもたくさんあったという。

地道に頑固に染め織物再現を追求し続け、やがてその努力が報われ始めた。86年、日本貿易振興会(JETRO)の1団が、インドネシアに視察に来たときのこと。JETROの職員ではないが、その団員だった今井俊博氏がビン・ハウスの作品に魅了され、コマラ社長と話をしたい、と申し出てきた。2人がやっと話せたのは、夜中の12時だったという。今井氏は、「あなたは、ぜひ日本に来るべきだ」と勧めてくれた。彼は、いまでもビン・ハウスのよき協力者のひとりである。

翌87年、東京のモリ・ハナエ・ビルで開催された「ナショナル・テキスタイル・コンペティション」において、ビン・ハウスの作品は優勝した。

「私たちは自ら日本に進出したというより、日本から選ばれたのです。偶然ですが、私たちの作品は日本人の好みに合っていたからです」とシスワンディ氏がいうとおり、日本人は、ジャカルタ店の客の8割を占める。

この優勝を機に、コマラ社長たちは頻繁に日本を訪れるようになり、銀座店オープンにつながっていった。

ビン・ハウスの作品は、近年のアジア・ブームの影響もあってか、海外でも注目され、欧米のデザイナーから作品をコピーされるようにさえなった。しかし、コマラ社長は特許を取るなど防衛策より、むしろコピーを野放し状態にしている。そして、「マネする人は、ネガティブなエネルギーをたくさん使います。それなら私たちは、ポジティブなエネルギーで、より良い作品を作り続ければいいのです」と、意欲を示す。「第一、コピーされるということは、私たちの作品がいいという証拠です」。

伝統を守り、手作業で作られるビン・ハウスの作品だが、現代的感覚も採り入れられている。たとえば、バティックは本来綿が素材として用いられるが、ビン・ハウスの作品は、絹が主流。「高年齢層の方のなかには、私のことを伝統を乱用している、とおっしゃる方もいます」と、コマラ社長は言う。

しかし、伝統を維持していくには、時代のニーズに合った新しい要素を積極的に採り入れていくことも必要だ。実際、いままでバティックを着たがらなかった若い世代の女性たちが、母親や祖母をビン・ハウスに連れてきては、「こういうバティックが着たかった」と、説明しているという。

<12歳で学校を中退して逆に幸せだった!?>

コマラ社長からは“アグレッシブな起業家”という印象は受けない。取材の最中彼女の口からは、一度も“ビジネス”という言葉は出てこなかった。自分は数字のことはよくわからないから、シスワンディに尋ねてくれといい、「市場経済、統計学なんてナンセンスよ」と笑いとばす。ビン・ハウスの経営には“右肩上がりの売上げ成長”というような目標はないという。「今月売上げが減ったら、『いつか』取り戻せばいいのですから」。

こんなビン・ハウスだが、マーケティングやビジネスに詳しい従業員が必要だということで、アメリカで経営学修士号(MBA)を取得したインドネシア人男性を雇ったことがある。この男性の考えとビン・ハウスの経営は合わず、彼はまもなく退社した。ビン・ハウスに、MBAは不要だったようだ。

12歳で学校を中退したコマラ社長には、学校時代の友人がいない。ときには自分を不幸に思ったこともあったが、いまではそれをラッキーなことだと考えている。固定観念が植え付けられなかったし、「人を、地位や学歴で判断することを覚えませんでしたから」

大島紬で有名な、奄美大島に講演に招かれたときのこと。コマラ社長は職人たちに、既存の概念にとらわれず、思い切って反物の幅を広げてみたらどうか、と提案したことがある。「そうすれば、キモノとしてだけでなく、コートやドレスとしても使えるでしょう」

たとえば、1メートルX2メートルのビン・ハウスのバティック布は、服や腰巻きとして着用されるほか、ショールにもなるし、テーブル・クロスやタペストリーと、装飾品にもなる。とくに、外国人はデコレーションの目的で購入する。

日本の職人は、幅を広げると値段が高くなる、とコマラ社長のアイディアにあまり気乗りしなかったというが、値段に関していえば、ビン・ハウスの作品は決して安くはない。前述の1メートルX2メートル布は、銀座店の売り値が6万円。ある日、銀座店でこのバティック布とブラウスを購入した日本人女性が、「一生に一度の自分の結婚パーティーで着用する」と言っていたのも、うなずける。

同じような作品でも、フランスやイタリア製なら納得するが、インドネシア製ということで、ビン・ハウスの作品を高すぎる、とぼやく人もいるが、「この1枚の布を作るのに、数カ月も費やしているのです」とコマラ社長。いい作品は必ず受ける、と信じている。

<賃金前払いで生活を保証し、いい作品を作ってもらう>

ビン・ハウスについて語るとき、コマラ社長は“I”ではなく、常に複数形の“WE”を使う。ビン・ハウスは会社というより、ひとつのチームであり、ファミリーだからだ。インドネシアの女性起業家は、部下のことをよりよく理解するために、一対一で接するという。これは人間関係を重要視する文化的価値観に基づいている。コマラ社長は、多くの読み書きのできない職人も、チームの一員として大切にしている。

スタッフとして働く30人の従業員と同じ医療保険を、600人の職人たちも受けている。村の工房で働く職人が病気になれば、大都市ジャカルタの病院に、社長自ら同伴する。「読み書きもままならい職人が、自分の病状を適切に説明できるか、心配ですから」

伝統的染め織物を手掛ける小規模な工房は、職人に賃金が払えず、つぶれてしまうことがある。そのため、まずビン・ハウスは賃金を無利子で工房に前払いし、作って欲しいデザインを見せ、職人にやる気を起こさせる。

「明日の生活も保証されていないような心理状態の人に、いい作品が作れるはずがありません」と、シスワンディ氏は言う。無利子でお金を渡すことに抵抗はないのか、という質問には、「一度も裏切られたことはないし、給料を前払いすることから信頼関係、忠誠心が生まれるのだ」と、コマラ社長とシスワンディ氏は声をそろえる。

職人が自分の工房を持つようになることは、コマラ社長にとって最高の喜びだ。「彼らは独立してからも、ビン・ハウスに良い作品を提供し続けてくれます」と、一度築いた信頼関係は崩れないという。ビン・ハウスに働く文盲の少女が、自分で稼いだお金で家を購入した、というエピソードもある。

コマラ社長は土・日も含めて1日に16時間働く。「それでも私はハッピー。自分のやりたいことをやっているのですから」。彼女は、自分の18歳の息子に、将来会社を継いで欲しい、と思っている。「彼(息子)にはいつも、学校なんか早くやめて私たちと楽しくやろう、と言っているんだけど。彼は、どうも学校が好きみたいなの」と笑う。

じつは彼女、長年のパートナーであるシスワンディ氏と再婚したばかり。あと5年ぐらいしたら、経営の第一線から退いて、インドネシアのテキスタイルについて、二人で本を執筆したいという。しかし、周りの人が、彼女の引退を容易に許すとは思えない。当分、忙しい日が続きそうなコマラ社長だ。


取材・文-----伊藤葉子
ベンチャーリンク誌95年7月号に掲載
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