香港
米国と香港の青年が持ち味を生かした共同経営
エクストラ・トレーディング
- 設立--------1992年
- 所在地------香港
- 代表者------ポール・バーテル、簡家雄(ビーン・カン)
- 従業員------3人
- 売上--------1000万米ドル (本文中はすべて米ドル)
- 事業内容----通信販売専門商社
迫りくる返還の話題一色の香港で、将来の不安を感じつつ、事業に夢を抱く青年実業家2人ーアジアの時代を予感しやってきた米国人と、血縁商売にこだわらない新しい香港人ーが今回の主役だ。
<中国から商品を仕入れ欧米の客に売る>
1997年以降、香港はどうなるのか?経済もビジネスもいまと同じだろう。いや、自由は制限され、中国の都合のいいように変えられる----。
返還の話題でもちきりの香港にエクストラ・トレーディング社はある。米国人のポール・バーテル氏と香港人の簡家雄氏が共同で、92年に起こした通信販売商社だ。3人の社員(香港人)を雇い、93年に1000万ドルを売り上げている。
同社は、10ドル以下の商品に的を絞り、アンティーク調の陶器から電化製品、玩具や靴などを、おもに中国から仕入れ、アメリカ、ヨーロッパ、ロシアなどの顧客に通信販売している。現在、同社の一番の売れ筋は、青と白の陶器製ティーポットで、とくにイギリスとアメリカで人気があるという。この商品は、最初、お茶をよく飲む英国人がターゲットだったが、英国人と米国人は同じアングロサクソン系であるためか、好みが似ており、アメリカでも受けたという。英語で陶器のことを“チャイナ””というが、中国製の陶器は高いという先入観まで、両者に共通していた。
同社は、当初、陶器を競合会社と同じひとつ10ドルで販売していたが、会社の特徴となるよう、値段を下げることを考えた。
「競合会社と異なり、問屋や仲買いを通さず、工場から直接大量に仕入れて自分たちで包装し、コストダウンを図り、ひとつ5ドルまで値下げしました」(バーテル代表)。
英国人は、家に人を招待するとき、自分の収集品を見せる習慣がある。さらに、英国人と米国人が、その陶器を装飾用として収集していることに注目し、異なるデザインの陶器をまとめて3つ購入すると10ドルに値引きするようにした。
このほかの商品では、やはりイギリスとアメリカで、革製パッチワークの女性用ハンドバックが、1個10ドルでよく売れているという。このバックは、衣服工場で出た、捨てられるのを待つばかりの残りぎれを寄せ集めて作ってある。顧客は皮製品が10ドルで購入できるということで、“つぎはぎ”であることをあまり気にしないらしい。
<日本はディズニーランドのような国>
さて、パートナーシップを組むまでの2人の経緯はまったく異なる。バーテル代表は、アメリカのアイビー・リーグ、ダートマス大学で経済学を専攻しながら、大手金融機関であるモルガン・スタンレーで、リサーチ・アシスタントとして働いていた。そのとき「これからはアジアの時代だ」と感じたという。
そして、働きながら日本語と日本文化を学ぶため、88年、卒業と同時に来日した。北海道の帯広から車で約1時間のところにある新得町で、2年間英語の教師をした。日本語を覚えたかったので、日本人の家庭にホームステイし、地元の人との交流を深めた。
やがて、「この小さな町で埋もれたくない」と思うようになってきた。そんな折、友人から、ニューヨークに本社のある通信販売会社の香港支店設立で、責任者を探していると聞き、東京に飛んで面接を受け、採用が決まると90年、香港に赴任した。
香港支店といっても、バーテル代表ひとりきりで、右も左もわからないまま、全業務をこなさなければならなかった。赴任した直後は、日本と香港との違いから、アジアの多様性を知ったという。
「日本はディズニーランドのような国です。夢のあるアトラクションがたくさんあり、皆きちんと列に並んで待つ。しかし、乗るたびにお金をとられる。 一方、香港は無秩序なところ。レストラン前の通りには、商売用の魚が放置してあるし、人々は平気で信号無視する」(バーテル代表)。
そして、予想していたより長い付き合いになりそうな中国がある。香港支店責任者として、初めて中国本土の工場へ商品点検のために行ったときのことだ。相手から、教えられた道順で工場に着くまで、聞いていた所要時間の2倍もかかったのに、肝心の点検は1時間で終了。あとで地図を調べ近道を発見し、悔しい思いをしたという。バーテル代表は、今でも1カ月に3〜4回ほど中国へ仕事で行くが、自分で交通機関を調べ、相手のいうことを鵜呑みにしないようにしているという。
そして、支店責任者として1年がたったころから、「日本語、広東語、北京語ができれば、きっと将来役に立つ。今度は中国本土で本格的に北京語を勉強しよう」と考えはじめた。そんな折、友人を通じて知り合った現在のパートナーである簡代表から、いままで学んできたノウハウを活かし、自分たちで会社を始めようともちかけられ、今日に至る。
<天安門事件で中国への不信感強まる>
一方、簡代表が地元の香港大学を卒業した90年、オーストラリア政府は測量士の資格を持つ香港人を対象に、移民優遇プログラムを発表。彼は、大学の専攻が建築測量学だったので、このプログラムに飛びついたが、大学を卒業したばかりで測量士としてのキャリアがなく、同プログラムからはずされた。
その後、香港で建築測量士として働いていたが、97年の返還までにもっとお金を貯めておこう、と考え始めた。天安門事件で国民に銃を向けた中国政府をみてから、香港人の中国政府への不信感はいっそう強まったからだ。しかし、信じられるお金をもっと貯めるには、サラリーマンでは限界がある。香港は東京より家賃が高く、独身者は友人と一緒にアパートに住み、お金を節約する。簡代表は、ドイツ人男性とアパートに同居しており、彼からドイツ語を学び、日常会話はこなせるようになっていた。
香港人は、通常、血縁同士や同じ香港人と組んで会社を始めたり、商売を行い、外国人とは組まない。外国人と組めば文化の相違が障害になる、香港人間でのコネがうまく利用できない、血縁関係による商売を重んじる華僑精神に反するといった理由からだ。外国人と組むのは避けたほうが無難だと思われている。しかし、簡代表は外国人と同居するような、オープンな性格。友人は香港人をはじめ、日本人、インドネシア人、欧米人と幅広く、外国人と組んでビジネスを始めることに抵抗はなかったという。
こうして2人は、雇われの身から、3人のスタッフを雇う立場になった。
<社員に毎月ボーナスを支給することが目標>
日本は終身雇用制が基本にあるため、ゼネラリスト中心の社会だが、香港はアメリカ同様、スペシャリスト社会である。日本の場合、とくに中小企業ではゼネラリストが必要とされるが、エクストラ・トレーディングでは、香港のほかの会社と同様、代表2人、3人の社員それぞれがスペシャリストとして、決まった役割をこなしているという。
スペシャリスト社会の香港では、広報なら広報ひとすじというように、同職種を追求し、よりよい条件の会社に移ってキャリア・アップを図る。そのため、会社への忠誠心は育ちにくく、給料のよい勤務先が見つかれば、たとえ重要なプロジェクトにかかわっていようが、さっさと転職してしまう。
「10年間で勤務先を4〜5回替えるのは珍しくなく、頻繁な転職も当たり前。恥だとは思っていないようです」(バーテル代表)。
しかし、エクストラ・トレーディングのような社員3人の小さな会社では、香港流に簡単に退社されては困る。そこで、2人がとった対策はズバリ“金”だ。香港では通常、旧正月前に給料の2カ月分が社員に支払われる。これは日本の冬期ボーナスにあたるが、エクストラ・トレーディングでは、これ以外に業績がよければ、すぐ臨時ボーナスを出すようにしている。現在、この臨時ボーナスを、毎月社員に出すのが目標だという。おかげで、会社設立時と同じ社員がそのまま働いている。
<2人の代表が役割分担、持ち味を生かす>
2人の代表は、それぞれの得意分野を活かすように仕事分担している。地元事情に通じた簡代表は香港工場との取り引きを担当。そして、中国本土での込み入った値段交渉にも立ち会う。
バーテル代表は、顧客が欧米人であり好みを把握しやすいため、売れ筋を探しに行く。また、中国人に苦情を言うのは、もっぱらバーテル代表の役目である。彼は、かなり北京語が分かるようになった今でも、商談は必ず英語で行うようにしている。細かいことを聞き逃さないうえ、通訳させているあいだに戦略を考えるためだ。
バーテル代表によると、日本人は長期的に商売を考え、自分達の商売を守ろうと努力するが、中国人はそうではない。簡代表も「中国人は問題が起きると、その場だけを取り繕おうとし『無問題(ノー・プロブレム)』で済まそうとする。いい加減に終わらせれば、自分たちの評判を落とすとか、あまり深く考えていないようです」という。
そういう場合には、バーテル代表の出番となる。“無問題”的中国人気質を十分承知の彼だが、何も知らない米国人になりすまし、「私の国アメリカではそんなビジネスなど通用しない」とカツを入れる。日本人同様、中国人も欧米人に弱い。アメリカ政府がつねに中国の人権問題を批判しているためか、中国人は“白人”を邪険に扱えないのかもしれない。
それでもだめなときは、簡代表が一緒に行く。2人は同じ年齢だが、東洋人の簡代表のほうが若く見え、バーテル代表の部下か通訳だと思う人は少なくない。そのうえ、簡代表は同じ中国系ということで、相手は腹を割って話してくる。こうして円滑に商売が運ぶようにしている。
また、欧米諸国の顧客のなかには、会社代表が米国人だということで信用してくれる人もいるという。一方、中国本土にある取引先の工場は、同じ中国系の簡代表がいるから、安心して商売ができると感じている。このように、エクストラ・トレーディングは、米国人と香港人といった2つの顔を持ち、うまく使い分けている。
同社がうまくいっているのは、以上のように、1)商品の仕入れを人に任せず、代表自らが主な仕入先である中国本土を訪れ、売れ筋になりそうなモノを探し出していること。2)それらの商品を直接工場から仕入れてコスト・ダウンを図っている。3)米国人と香港人による経営において、それぞれの持ち味を活かし、役割分担していること、によるといえるだろう。
バーテル代表は今後「通信販売スペシャリストの道を追求し、日本市場には是非参入したい」と、夢をふくらませている。
<香港の将来は暗くてもビジネスの将来は明るい>
以前バーテル代表が勤めていたニューヨークの通信販売会社が、88年、日本市場への参入を試みたが失敗に終わった。目の肥えた日本人に受ける商品を探すのは容易ではない。とくに参入に失敗したバブル最盛期、安いモノ、ノーブランド商品は見向きもされなかった。
しかし、今日の日本では、低価格商品にも注目が集まってきている。また、海外旅行に頻繁に出かけるようになった日本人は、海外で、安くてよい商品を実際に見ており、国内で販売されている輸入品との値段差に疑問を持ち始めている。これはチャンスかもしれない。
また、2人の代表は「早くオリジナルの人気ブランド商品をもちたいし、香港や中国市場参入を考慮している日本企業へのコンサルティング業務にも興味がある」という。
さて、97年に迫った香港の中国返還と、その後のビジネスに関して、2人は次のように見ている。「中国政府は、返還後も50年間は現状を維持し、1国家2制度の体制を保つと宣言していますが、本当にこれを実行するかどうか疑わしい。返還後、中国政府は香港に関して、自分たちの都合いいうように物事を運んでいくのではないでしょうか。そして、現在保証されているような言論・報道・集会などの自由が維持できるとは思えません。
けれども香港は、返還後も人々が自由にビジネスできるところのままで,残るでしょう。中国本土の人々は、香港から国際ビジネスについて多くを学べますし、投資もしていますから。つまり、返還は私たちのビジネスにほとんど影響しないと思います。当社では97年までに中国本土に事務所を開設するかもしれません。これは、製造現場に近いことと、香港での高い家賃と人件費を回避するためです」(バーテル代表)
「基本的に、私は中国政府を信用していません。香港大学の学生だったころから、香港の将来に関して心配しはじめていましたが、89年のあの事件が起きるまでは、希望も抱いていました。しかし、6月4日の天安門事件と香港特別行政区基本法問題が、私に挫折感を与えました。また、現在中国本土との取り引きが多いので、本土の人々や役人と接したり制度について学び、中国という国についてわかってきました。そうしていくうち、返還後の香港での自由に対する希望が失せていきます。
政治的事項に関していえば、香港の将来は決して明るくありませんが、中国経済繁栄にともない、香港経済はさらに伸びていくと思います。私たちのビジネスは、返還後も成長していくと確信しています」(簡代表)
取材・文-----伊藤葉子
ベンチャーリンク誌95年1月号に掲載
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