オーストラリア
父の八百屋を、常識破りの発想で年商24億円の企業に
アンティコ・インターナショナル(株)
- 代表者-------アッティリオ・ジョン・アンティコ
- 設立---------1955年
- 所在地-------マーケット
- 売上---------3千万豪ドル(約24億円)
- 従業員-------20人
- 事業内容-----オーストラリア産青果物の輸出販売・仲介
「父の八百屋を拡大したい」と考えたジョン青年だったが、常識ではとても儲からない、八方塞がりの状況であった。しかし、人のやらない方法と努力で成功。成功する経営者の発想と姿勢に国境の差はない。
<あくせく働くのは悪、成功は運というお国柄>
「ラッキー・カントリー」-----
豪州の人々は自慢げに自分の国をこう呼ぶ。日本の22倍の面積に10分の1の人口しかおらず、また、豊富な天然資源と自然環境に恵まれているため、あくせく働いたり、他人と競争しなくても将来を心配せずに豊かな生活がおくれるというのだ。だが、こうした面が逆に市場での競争意識をいっそう希薄にしているのも事実である。また、「人生には楽しみがたくさんあるのに仕事にだけ夢中になって金儲けするのは悪徳だ。それに、人生の成功は努力ではなく、天運によってもたらされるもの」という伝統的観念の影響も加わり、この国では自営業者が非常に多いわりには、起業家・実業家と呼ばれる人は少ない。競争が厳しいといわれる農産物の流通・小売り業界でも、その状況にあまり変わりはない。
「しかし、人より抜きん出たいなら運ばかりじゃだめだ。大切なのは勤勉さと先見性、そして柔軟性をもって忍耐強く努力すること。運はそれについてくるものさ」とジョン・アンティコは笑う。彼は、従業員数20名で年間3000万豪ドル(約24億円)の売り上げを誇る豪州産高級青果物の卸売商社アンティコ・インターナショナルのオーナー社長である。国内市場中心の青果物業界にあって、同社では売り上げの9割を輸出部門が占め、しかも輸出商品の60%を航空便によって配送していることに特徴がある。もっとも「これは40年の月日の積み重ねだ」という。
<同業者の無視する地域をターゲットに>
イタリア系移民2世のジョンが兄2人をさそってシドニー空港周辺の航空会社やホテル、工場付属の食堂などを対象に青果物の商売をはじめたのは1955年、まだ役が21歳のときであった。当時、開発中の工業地帯だった空港近くに父親が2軒の八百屋を開いていたが、ジョンは事業を大きくしてもっと儲けたいと思った。しかし場所柄、八百屋の本来の顧客である一般家庭を相手にしていたのでは現状維持が精一杯。また、市場規模の大きい卸売業に参入するにしても、当時の卸売業界はイギリス系が排他的な支配をしており、イタリア系移民の入る余地はなかった。八方塞がりのなか、事業の拡大を夢見る兄弟たちが見つけた回答は、周辺の事業所を新たな小売顧客と見なして商売することであった。
「航空会社の機内食やホテルのレストラン、事業所の食堂の人は材料をそれぞれ近くの八百屋にわざわざ買いに行って調達していた。不便な場所の彼ら専門に納入する八百屋は誰もいなかったからいけると思った」とジョンは当時を振り替える。この狙いは成功した。ほかの青果物業者が無視するような地域だったが故に、そこは彼らのニッチマーケットとなったのだ。
この商売をはじめる資金は父親が保証人となって旧知の銀行から借りたものだ。金額は1万ドル。「銀行のマネージャーが父の店で働く自分たちの勤勉な姿を知っていたため貸してくれた。いまではとても無理だろう。あの頃は銀行とも個人的な信頼関係で付き合うことができた時代だった」という。
これで、青果市場の片隅に事務所を構え、必要備品を揃えて事業がはじまった。
その後航空業界が徐々に発展、ホテルも増えていくという順風にも恵まれたが、事業を伸ばしていった最大の要因は、「顧客に対し最善のサービスを提供するように努めたことだ」とジョンは言い切る。
いまでも店舗でも週休2日、午後5時閉店が当たり前のこの国で、「私たちは顧客に合わせて週7日働き、1日24時間の顧客サービス体制を採ってきた。品質や価格だけでなくこうした対応があったからこそ、顧客の信頼を得て、最大手の納入業者として発展できた」と語る。この方針は40年経ったいまでも変わらない。
<非常識のなかにビジネスチャンスが!>
航空便による輸出事業をはじめたのは、60年代初め、海外路線を開拓中であった納入先の航空会社が航空便による青果物の輸出の話をしたのがキッカケだった。さっそく、香港、シンガポールなどに出かけていき感触を確かめた。ジョンは「これこそ大きな潜在需要をもつ新しいマーケットだ」と直感し、すぐに先方では季節はずれとなったサクランボやモモなどの核果類を輸出してみた。結果は大好評。当時の青果物の輸出というと、対象商品は日持ちのきくオレンジ、リンゴなど、輸送方法はコストの安い船便での大量輸送、行き先は英国を中心にした英連邦諸国というのが常識。傷みやすい核果類を、ましてや飛行機を使ってアジアの国に運ぶなどとは、まったく常識外であった。事実、競合相手となりそうなところはこうしたアンティコのやり方を奇異な目で見、このマーケットを単なる一時的流行と捉えてまったく無視した。
無風の競争状態に助けられてこの事業は順調に伸び、数年後にはジョンたちはこれまでの地場取引きから手を引いた。このビジネスに専念できるほど利益が出るようになったためだが、逆にいえば専念しなければならないほどやることが多かったといえる。「すべてが初めてで試行錯誤の連続だった」とジョンは言う。
顧客、栽培者との狭間で解決するべきことが次々に出てきた。
外国での取り引きの際に起こりがちな、慣習、文化、言葉の違いによる摩擦を避けるため、ジョンはまず対象マーケットを文化的共通点をもつ英連邦下の香港とシンガポールにした。はじめは現地在留の英国人と取り引きをし、やがて経験を積んで現地に親しむにしたがい、徐々に地元の顧客との取り引きに移っていった。また、現地市場のノウハウをもつ地元の代理店を使っての顧客開拓も同時に進めたおかげで、心配した摩擦はほとんど起こさずにすんだ。ただ、この代理店利用に関しては苦い経験をしている。いまは1国につて1、2社の代理店を原則にしているが、「当初は取り引きを求める者には差別なく応じていた」という。ところが代理店同士で顧客の奪い合いがはじまり、値引き競争で市場価格が暴落しただけでなく、デマを飛ばす者が出て、お互いの信頼関係までが損ねられるという事件が1度ならず起きたのだ。「海外ではより多くの代理店と取り引きすることは、即ち自ら厳しい競争状態をつくり出すことに等しい」ということを学習したと笑う。以降は「アンティコと共に発展していくという忠誠心をもつ代理店だけを1国に1、2社選んでマーケティングする方針になった。これにより現地の商品管理と代理店の営業活動の支援も効率的にできるようになったという。
海外の顧客は国内の顧客に比べた場合、品質、梱包形態に対する要求が厳しい。「顧客仕様に合わせて商品を生産・納入する」、日本では当たり前のことだがこの国では「生産者仕様に合わせて顧客が買うべき」という認識のほうが強い。農業のような伝統的産業ではなおさらである、ジョンが「もっとも苦労してきたこと」がこの問題だという。
<手間を嫌がる栽培者の問題をどう解決する?>
品質の選別、サイズの統一、傷みにくいパッケージへの箱づめなど、国内市場向けでは要求されない手間に、栽培者側はいい顔をしない。彼らは「単価は高くても手間が掛かる輸出向けより、半分の手間で量が捌ける国内市場向けを優先しがち」で、いきおい、輸出向けの商品の供給は不安定になり、価格も法外な高価での取り引きが要求される。輸出をはじめた頃は輸出できる品目は栽培者がそのときに何を国内市場向けに作っていたかに大きく左右されたという。
こうした状況に対してジョンが採った対策は2つ。ひとつは、全国の栽培者を回って条件の合う品物の供給ソースをできるだけ多く確保する一方で、自分たちの倉庫内に積み替え、選別、輸出向け再梱包のための設備を設けたこと。当時のこうした設備投資が、後になって参入してきた競合他社に対する強い競争力となった。ほとんどの競争相手はそうした設備を保有していなかったからである。
もうひとつは、より根本的な対策で、栽培者に輸出市場の重要性を認識してもらい、彼らとの相互依存の発展関係を築くことである。ジョンは、栽培者に国内需要の限界と輸出市場の重要性を説明するだけでなく、ジョンの考えに理解を示す協力的で有望な栽培者には、海外視察を提供し、海外市場の実態、顧客ニーズの背景、マーケットの将来性などを肌で感じてもらう独自のインセンティブ・プランを実施してきた。この結果、近年はそういった栽培者との海外市場向け仕様に基づいた栽培から梱包までの契約が容易となり、また、定期的に彼らを訪問して栽培状況、品質管理などに関与することが可能になったという。「この商売での成否は、自分たちを信じて支援してくれる栽培者を掴めるかどうかだ」というのはジョンの実感だろう。
最近、ジョンは「自分たちのこのビジネスにおける役割も変化すべきときにきている」と感じている。扱い数量が膨大になるにつれて、輸出販売業者としてのやり方では顧客の要望に物理的に対応しきれなくなってきたのだ。「このビジネスでの輸出販売業者の役割は終わろうとしている。いま自分たちがマーケットから求められているのは、海外の顧客と国内の供給者のあいだを取りもち、双方の要望を満足させる市場コーディネーター、ある種の商社的役割だ」という。
<今後の課題はコーディネーター的役割>
ジョンは協力的な栽培者を海外マーケットに視察に連れていくインセンティブ・プランと同様に、海外の顧客・買い手に対しても国内の栽培者の農場を訪問させるプロモーション戦略を実施している。これは顧客のロイヤリティーを培うばかりでなく、コーディネーターとしての役割を果たす際に重要な手段となる。
「自分の目で確かめたことほど説得力のあるものはない。お互いが実態を知っていれば、取り引きをまとめる際の時間も誤解も少なくて済む」からだ。
コーディネーターとしての仕事はこれまで以上に栽培者と買い手の双方と緊密な関係を保つことが要求される。このビジネスでは注文から客先納入までの時間が短いため、マッチングを成功させるにはつねに栽培者の作付け・収穫状況と顧客の需要動向を把握していることが不可欠なのだ。現在ジョンのほか、輸出担当マネージャーもジョンの兄、息子の4人がこの仕事を分担しているが、毎日誰かが国内栽培者あるいは海外需要家のところに出張している。
また、顧客との関係強化では客先の販促活動を積極的に支援し、扱い商品の宣伝・試食費用の負担のほかにアンティコのロゴが入ったTシャツ、ポスター、冊子などの配布を行なっている。これは商社的な役割が中心になるにつれて、自社名をマーケットに対しPRする重要性がますます増してきたことへの対策の意味も含まれている。こうしたことが評価されて、90年には豪州貿易委員会(AUSTRADE)から「農産物マーケティングの革新的活動企業」として表彰されている。
ところで、アンティコは、創業以来、事業資金はすべて自己資本で賄ってきたが、1度だけ自社株式を外部の投資会社に売却したことがある。87年に食料品の世界的チェーンをもつ投資会社が出資を申し出たときだ。アンティコは彼らがもつ世界規模のマーケティングに関する専門知識を活用したいと考え、保有株式の50%を売却した。ところがその後の景気後退で先方の経営が悪化し、わずか3年で提携を解消するはめになった。「幸いにもそれ以外の資金関与をさせていなかった」ため、売った株の買い戻しだけで済んだが、このときの教訓から、資金調達を外部との提携でする場合には提携先の状況を慎重に調査したうえで行なうことを肝に銘じたようだ。
ジョンは将来について「これまで培ったノウハウを生かして、世界中の顧客と栽培者とをよりいっそう緊密なネットワークで結びつけるコーディネータービジネスを確立し、それを新たなニッチマーケットとして発展させること。それが今後10年の目標」で、それから先のことはわからないという。「マーケットはつねに変化する。その傾向を読み、それに適応できる柔軟性をもたない企業は脱落するしかない。私だって10年後はまた、昔の八百屋に戻ってしまっているかもしれない。そうならないためにも週7日、1年365日一生懸命に働くのさ」。そう最後にいい残して、ジョンは携帯電話を耳にあてながらマレーシア向けの品物が着いた倉庫へ急いで下りていった。
取材・文-----上田浩
ベンチャーリンク誌95年3月号に掲載
Copyright GlobalLINKTM 1996
世界の起業家インデックスへ