アメリカ

エアロビクスの元祖
フィットネスを事業化したスパ・リゾート経営者


フィットネス株式会社


<スパ・リゾート>

アメリカで「スパ」と言えば、日本でいうスポーツクラブやフィットネスセンターのことだが、特に宿泊施設のあるものを指す。アメリカの「スパ」には、大きく分けて、一般のリゾートホテルに付属したフィットネス設備の「アメニティ・スパ」と呼ばれるものと、減量・体力増強・ストレス削減などを目的としたフィットネス専門のホテル、「スパ・リゾート」と呼ばれるものがある。

南カリフォルニアにあるスパ・リゾート、「ザ・オークス」と「ザ・パームズ」には、プール・サウナ・運動施設が備わり、栄養のバランスが採れた低カロリーの三食付き、早朝にはハイキング、日中はエアロビクス、夜はフィットネスに関する講座が開かれる。看護婦も常勤し、これらのサービスすべて込みで、宿泊費一泊135-205ドル。5泊6日のパッケージは625ドルから。(高級スパ・リゾートになると、これが3,000-5,000 ドル。)美容室やメーキャップ室でのサービス、各種マッサージ、フィトネスに関する個別相談などは有料で行なわれる。

<起業家に必要なビジョン >

オーナーのシーラ・クラフ社長は、スパの経営以外に、テレビ番組の司会、執筆、講演なども務め、国際スパ協会の理事やトップビジネスウーマンの全米組織「200人の委員会」の創立メンバーでもある。成功した起業家として講演をするとき、彼女は、起業家には「VIPと処方」が必要だと説く。VIPはビジョン(先見力)、インテグリティ(誠実さ)、パッション(情熱)の略、処方はある程度の知力・専門知識+ある程度の資力+多量のエネルギー・強さ・体力+ものすごいガッツ+ある程度の運・タイミング。特にVIPは自分には不可欠だったとクラフ社長は語る。

彼女は、「フィットネス」という言葉ができるずっと以前の1958年に、エアロビクスの先駆となったCVダンス(心肺機能を高めるダンス)を生み出し、全米に健康・フィットネスブームが広がる何年も前の1969年に、そのブームがカリフォルニアで爆発的に広がることを予測し、カリフォルニアに移住、1976年に全米初のアメリカ式スパをオープンした。

彼女はこのビジョンをどのように身に付けたのか。10代の頃、カナダでプロのフィギアスケーターとして活躍していたクラフ社長はこう語る。「若い頃の運動選手としての経験がビジネスの世界で非常に役立っています。時間管理、コミットメント、目標設定というものを学び、知らない間にビジネスに対するビジョンが養われていました」1950年代、中学で体育の教師をしていた頃、運動嫌いの生徒に何とか運動をさせようと、フィギアスケートの型を体育館に持ち込み、音楽に合わせて体を動かすCVダンスを生み出した。ポータブルのステレオやカセットデッキなどなかった時代、クラフ社長はピアニストを雇って音楽を演奏させた。生徒たちは楽しみながら運動ができることを発見し、ライフスタイルにまで変化が生じた。「その時、運動の価値が分かったのです。また、人をやる気にさせる能力が自分にあることも。それが、ビジネスへのビジョンを生むことになりました」

<パッション>

クラフ社長がまず取り組んだ事業は、YMCA・大学・軍事基地・企業向けのフィットネス・プログラムの開発。顧客が増えるに連れ、人を雇ってトレーナーに訓練するトレーニング会社へと発展させた。「健康・体力がやる気やエネルギーを生み出し、知的能力まで増す」と信じる彼女は、企業に、社員の健康・体力レベルが向上すれば生産性も向上するというコンセプトを売り込んだ。1960‐1970年代、「知と心と体は一体だ」という考えなどまだ受け入れられていない頃の話だ。

クラフ社長にとって「健康とは、自分がやりたいことをやるために必要なエネルギーと強さとスタミナを持つこと」であり、それが自信へとつながる。「フィットネスやファッションというのは、長年の間、たわいないことと考えられてきましたが、健康で自分なりに魅力的であることはポジティブなこと。自分のやりたいことを達成するという非常に大きなビジョンに関係している」健康・体力は、自分の目標を達成するための最大の道具だという。

ビジョンに続いたのがパッション(情熱)だった。旅行や異文化に対し常にパッションを抱いていたというクラフ社長は、そのパッションを満たしながら、同時に報酬を受け取る方法を模索した。「ビジョンとパッションはからみ合っている」という彼女は、好きなフィットネスを教えながら、海外旅行をする方法を考え出した―クルーズ船上でフィットネスのクラスを開くというものだ。

1969年にクルーズ船会社にこう提案したとき、船上で運動などしたいという客はいないとあっさり断られた。これに対し、クラフ社長は「客室を20室売るので、クラスを持たせてほしい」と申し出、実際に20組の乗客を集めた。船上でのクラスは自分の客だけに限り、参加を希望した一般客には、クラスを取りたければ、クルーズ会社にその旨手紙を書くように指示した。こうしてクラフ社長の「フィットネス・ヘルス・ビューティー・クルーズ」が誕生。今では、年に数回、北欧やカリブ海へのクルーズを企画するが、船上ではエアロビクスだけでなく、ストレス管理・コミュニケーション・自己啓発などに関するセミナーも催される。

<ビジネスウーマンをターゲットに>

その後も、「私のビジョンは、垂直でなく、水平に広がり続けました。垂直思考というのは上にだけしか伸びず、狭いものなので、水平思考をすることによって、一つのビジョンがどれだけの接点をもって広がるかを見てみたかったのです」クルーズを重ねるに連れ、乗客から健康食への要望やディナーのためにドレスアップするのは面倒だという声が上がり始めた。その頃、アメリカでスパと言えば、肥満者のための苛酷な減量プログラム式スパ、高級な美容スパ、リゾートホテルに付属した「アメニティ・スパ」しかなかった。クラフ社長は、そこに大きな市場チャンスを見い出した―健康やフィットネスについて学べ、ライフスタイルに重点を置き、ホテルや高級スパのように客室にお金をかけず、ディナーのためにドレスアップをしなくていいようなリラックスした雰囲気のスパの構想だ。「起業家というのは、大衆が欲しがるものが存在しないときに、それを創り出す人」と言い切る。

1970‐1980年代、女性の社会進出に連れ、女性たちが男性と同様のストレスを経験し始めたこと、スーパーウーマンなどの言葉が生まれたように、社会的プレッシャーは二重労働を強いられる女性に対しての方が大きかったこと、またフィットネス市場は女性によって占められていたことから、ターゲットをビジネスウーマンに絞ることにした。

こうして1976年、南カリフォルニアのオハイに「ザ・オークス」をオープン、1979年にはパーム・スプリングに「ザ・パームズ」をオープンした。クラフ社長のスパは、新しいコンセプトだったため、市場への参入には時間がかかったが、そのうち彼女の予見したフィットネス・ブームが到来した。またアメリカでは「バリュー(値打ち)」が合言葉となり、「手ごろな価格で中身の濃いサービスの提供」をモットーとした彼女のスパは、時代の流れにピッタリだった。

スパの泊り客は、8割が30-50才代のビジネスウーマン。年齢層は年とともに若くなっており、それと平行してフィットネスのレベルも高くなっているという。以前は、泊り客の7割が常連客だったが、近年、カリフォルニアの経済悪化に対応し、マーケットシェア維持のため、新顧客層を開拓するためのキャンペーンを行なった。その結果、今では新しい顧客が泊り客の4割を占める。

<経費の削減につながる卓越したサービスの提供>

常連客の占める割合が、スパの人気を物語っているが、その秘密は「シーラ・タッチ」と呼ばれるクラフ社長のパーソナルタッチによるところが大きい。二つのスパを往復するだけで一日が終わるにも拘らず、彼女は今でも週に6-8コマのエアロビクスのクラスを担当、早朝ハイキングに引率し、泊り客には一人一人全員に声をかける。

クラフ社長が、超多忙なスケジュールにも拘らず、シーラ・タッチを維持できるのは、「自分一人でやっているわけではない。全てチームでやる」からだという。彼女のアシスタントは、彼女の元で働いて14年になるし、そのアシスタントのアシスタントも同様だ。「人が働きたくなるような環境を作りだすことが大切」従業員が最大の資産だというクラフ社長は、従業員のための提案箱を設け、毎月最優秀提案を選出する。また提出された提案すべてに対し、各部署のマネージャーが返答し、従業員は全員フィードバックを受けるシステムになっている。チームの一人一人に役立っていると感じさせることが大事だという。そのかいあってか、従業員離職率は非常に低い。

「泊り客に喜んでもらって、それと同時にある程度の利益をあげる」ことを目標に掲げるクラフ社長は、従業員に「ただのサービス」ではなく、「卓越したサービス」を提供するようにと説く。従業員の職務規定には、全従業員が個々の部署ではなく、最終製品やサービスまで責任を負うと定められているという。

スタッフ対泊り客の割合が一人以下という業界平均に対し、クラフ社長のスパでは泊り客一人に対し、スタッフ1.08人。当然人件費はかさみ、給料の支払いに困ったこともあるらしいが、この割合を下げる気はないという。「優れたサービスを提供するということは、マーケティングにそれだけ経費をかけないですむということ。新しい顧客をつかむためのコストは、既存の顧客を維持するためのコストの5倍かかる」

<失敗・障害は成功に不可欠>

今では年商8億ドルの事業の経営者となったクラフ社長だが、これまで何の苦労もなかったわけではない。「一番つらかったのは、初めての子を2才半のとき髄膜炎で失ったことです」モントリオールの病院に向かう途中、吹雪の中で救急車が立往生し、手当てが遅れたためだった。「起業家にはガッツが必要」という彼女は、同じ悲劇を繰り返さないようにと、地元に医療センターを開設するために、自らの辛い経験を話して回る募金活動を開始した。テレビやラジオで募金活動に励むクラフ社長を見た地元のテレビ局関係者は、彼女のタレントとしての才能に目をつけ、彼女のためにフィットネス番組を設けた。「辛い経験が新しいチャンスをもたらしてくれました」

もう一つの辛い経験は、1976年にオハイのホテルを買い取ったときだった。クラフ社長は借金をするため、家と車、夫の年金まで抵当にいれた。「大変なプレッシャーでした。私が失敗すれば、子供たちを大学にやることもできない。すべてが私のせいになる。資金が残り1万ドルとなったとき、倒産の恐れのために4キロ痩せました」しかし、その経験も「皆で力を合わせてこの苦境を乗り切るんだ」と家族のチームワークを強化するのに役立ったという。彼女はクラスを全て自分で教え、子供たちは皿洗い、プール掃除、施設修理をした。今では、1982年に会社勤めを辞めた夫と3人の娘がスパの経営に参画し、科学者の息子もときどきスパの仕事を手伝う。

「成功する起業家というのは、障害に出会っても、それを乗り越え、進み続けられる人。マイナスの経験をプラスの経験に変えられる人です」クラフ社長は自らの経験を振り返りながらこうも言う。「苦労、罪悪感などいろいろ経験します。でも、それを避けて成功する道などないのです。障害を乗り越えれば乗り越えるほど、すべきことは何かを見極められる力が身につくのです」

あらゆる経験から学ぶという彼女は、「成長するためには過ち、失敗、障害が必要。私たちは成功ではなく、失敗から学ぶ」と言う。「成功した人というのは絶対にあきらめないのです。失敗というのは、選択肢の中にないのです」というクラフ社長の夢は、事業を娘に継がせて、自分は健康の大切さを講義しながら世界を駆け巡ることだ。


取材・文-----有元美津世
ベンチャーリンク誌94年12月号に掲載
Copyright GlobalLINKTM 1994

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Revised on 7/30/96 at 11:15 a.m. JYM